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不死王閣物語その1 10万尾の銀鱗躍る! 「鮎の茶屋」創業当時のこと・・・

  • 2012年07月28日


「うちはね、昔、鮎の養殖池でお客さんに鮎を釣ってもらい、それを料理して食べさせる料亭だったんですよ」と「不死王閣」会長の岡本直文さんが語る。直文さんの父、夘一郎さんが、その養殖池を作ったのは昭和8年のこと。「鮎の養殖はたぶん、日本で初めてやったんやないでしょうか」

旅館の前を流れる余野川の清流の一部をせき止めた流水プールを作り、滋賀県から仕入れた鮎の稚魚を育てた。養殖鮎を売って商売にしようと考えたのだ。だが、川で天然鮎が躍っていた時代、養殖鮎は見向きもされない。「父の誤算やった(笑)。そこでこんどは、釣らせて料理することを思いついたんですな」農業を営む傍ら、俳人・地厚として多くの秀句を残す夘一郎さん、なかなかのアイデアマンであった。「伏尾の鮎茶屋」はこうして産声をあげた。 

 滋賀県から稚魚を仕入れて放った池は「10万尾の銀鱗躍る」、「北摂の新名所、伏尾の鮎狩 婦人子どもでもよく釣れる!」と大評判に。料金は「入場料二圓(三十五尾まで)、貸竿二十銭、鮎料理(五品付)一圓より」娯楽施設が少ない昭和のはじめ、阪急電鉄も「鮎狩は阪急沿線で」と新名所を大いに宣伝、新聞社が、今でいう日帰りパックを組むなど大盛況となったのである。その当時、直文さんは7歳。「いわしやぬかをダンゴにする餌づくりを手伝ったり、毛ばりで釣る沈み釣りのコツをお客さんに教えたりしてました」 
 のどかな時代のレジャースポットは数年間、盛況を博した。だが、昭和16年、太平洋戦争の開戦で、鮎茶屋は閉店を余議なくされ、戦後、営業再開されるのは昭和25年のことになる。 つづく・・・ 
 鮎の宿 麦藁を焚く なつかしき   地厚 
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