あらすじ
平安の昔、久安寺というお寺に賢実上人という徳の高い和尚様がいました。
この和尚様、宮中で説法して以来帝より厚く信頼されていました。
それからどれ程たった頃でしょう。皇后様がご懐妊された時、和尚様が
安産を祈ることになりました。その時誕生された皇子が後に即位した近御帝です。
そして、当時の人々は皇子の御産安泰にちなんでこの地域を不死王村と呼ぶように
なったということです。今の伏尾という地名は、この不死王村が由来だと
伝えられています。
久安寺は、不死王閣から歩いて7分の場所にあります。
同じ地域で池田市伏尾町にございます。
この現在の伏尾町が、不死王村からかわったと伝えられています。
当館の「不死王閣」はこの云われから名付けられました。
不死王閣 現会長「岡本 直文」の痛快人生を数回に分けて動画で配信いたします。(10分42秒)
・昭和42年 温泉を掘り当てる
・会長インタビュー
「原田 憲との出会い」
「小林 一三翁の思いで」
「青年会議所活動」
「50年にわたるロータリー活動」
・父 地厚の俳句
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不死王閣 現会長「岡本 直文」の痛快人生を数回に分けて動画で配信いたします。(8分43秒)
・昭和37年 組織を「㈱伏尾の鮎茶屋」とする
・昭和38年 五階建て新館施工
・昭和40年 政府登録国際観光旅館認可
・会長インタビュー
「旅館名を不死王閣に」
「テレビCMを活用 CMソング作成」
「お金を借りるのが仕事」
「万博融資を活用」
・昭和45年万博の年に第二期工事完成
・会長インタビュー
「ボーリング場」
「ゴルフ場」
「温泉」
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不死王閣 現会長「岡本 直文」の痛快人生を数回に分けて動画で配信いたします。(7分56秒)
・昭和30年代 不死王閣の礎を築く躍進の時代
・岩本栄之助の別邸を貰い受けて移築
・二階建の料理旅館として再出発
・昭和31年 名女将の誕生
・会長インタビュー
「結婚当時のこと」
・宝塚スターを利用してPR
・鮎に加えて松茸も名物に
・会長インタビュー
「当時は裏山が松茸山」
・昭和36年鉄筋の橋が完成
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不死王閣 現会長「岡本 直文」の痛快人生を数回に分けて動画で配信いたします。(7分9秒)
・養殖池の様子
・当時の広告宣伝
・会長インタビュー
「稚魚運搬に苦労」
・昭和16年太平洋戦争突入 鮎茶屋休業へ
・やがて終戦 明治大学へ入学
・昭和25年 鮎茶屋再開へ
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不死王閣 現会長「岡本 直文」の痛快人生を数回に分けて動画で配信いたします。(8分28秒)
・不死王閣館内案内
・会長の幼いころの画像
・会長インタビュー
「父の思い出」「俳人:地厚のこと」「鮎養殖のきっかけ」「阪急電鉄が注目」
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不死王閣ホームページはこちらから
昭和38年、「伏尾の鮎茶屋」に鉄筋コンクリート5階建ての新館が誕生。政府登録国際観光旅館の認可も受けて新たなスタートを切った。先代・夘一郎が昭和8年に始めた料亭“鮎茶屋”、その跡を継いで旅館にした二代目社長・岡本直文(現会長)の大きな夢が実現したのであった。
直文は考えた。「せっかく鉄筋にしたのに“鮎茶屋”ではイメージがあまりにみ小さいではないか」その時、当時・伏尾の地名の由来を思い出す。
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戦後、世の中がようやく落ち着きを取り戻した昭和25年、「伏尾の鮎茶屋」は再開を期して動き始めた。
昭和8年に創業し、お客様に鮎を釣ってもらい、それを料理する料亭として出発した鮎茶屋だったが、、釣り池は戦時中の水害などで荒れ放題。それを、初代の卯一郎、二代目であり現会長の岡本直文、弟の重一の3人でコツコツ整備した。地域の振興のためにも鮎茶屋の復興は待たれていた。それを肌で感じる直文は、新聞記者になる夢を捨てて鮎茶屋を継ごうと決意。昭和27年、明治大学卒業と同時に再建に取りかかる。
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「うちはね、昔、鮎の養殖池でお客さんに鮎を釣ってもらい、それを料理して食べさせる料亭だったんですよ」と「不死王閣」会長の岡本直文さんが語る。直文さんの父、夘一郎さんが、その養殖池を作ったのは昭和8年のこと。「鮎の養殖はたぶん、日本で初めてやったんやないでしょうか」
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