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不死王閣ものがたり其の2 五輪景気で鉄筋新築 エノケンも原節子も来た昭和30年代

  • 2012年07月28日


戦後、世の中がようやく落ち着きを取り戻した昭和25年、「伏尾の鮎茶屋」は再開を期して動き始めた。 
 昭和8年に創業し、お客様に鮎を釣ってもらい、それを料理する料亭として出発した鮎茶屋だったが、、釣り池は戦時中の水害などで荒れ放題。それを、初代の卯一郎、二代目であり現会長の岡本直文、弟の重一の3人でコツコツ整備した。地域の振興のためにも鮎茶屋の復興は待たれていた。それを肌で感じる直文は、新聞記者になる夢を捨てて鮎茶屋を継ごうと決意。昭和27年、明治大学卒業と同時に再建に取りかかる。 
 阪急電鉄・池田駅前に、株で儲けた大富豪・岩本栄之助の別邸だった家があり、譲り受けて移築。岩本氏は北浜の株式仲買人で、大正時代、大阪・中之島の中央公会堂を私費を投じて、建設し市に寄贈したが、株の大暴落で拳銃自殺を遂げた人物だ。 
 「離れの茶室まである、なかなかええ家でしたが、移築費にえらい高うつきました」と直文。昭和30年、この二階家移築を機に料理旅館として再出発。鮎釣りに松茸狩りにぼたん鍋・・・四季折々の楽しみがあり、100畳の座敷は三味線、やとなを呼んでの粋な宴会で大賑わい。当時、エノケンさんこと榎本健一、女優の原節子、歌手の渡辺はま子、漫才のダイマルラケット・・・有名人が次々と訪れた。 
 そんななか昭和33年に民法テレビが登場。直文はいち早く、テレビのコマーシャルを始める。♪フシオノ~アユヂャヤ(伏尾の鮎茶屋)・・・と宿の名前を連呼するCMソングが当たって、名前は近畿一円に鳴り響いた。宿のパンフレット作りには宝塚歌劇の生徒をモデルに呼んで撮影するなど、まさに日の出の勢いであった。「30年代は、勝手に儲かっていきましたな。夢がふくらんで楽しかった。」 
 だが、直文は行き詰まりを感じていた。施設を大きくしたいが、当時はまだ戦後の復興期、遊興施設である旅館の拡張に銀行は融資をしてくれなかったのだ。しかし、昭和37年、願ってもないチャンスが訪れる。39年の東京オリンピックに向けて外人客を誘致する目的から旅館への融資が受けやすくなったのだ。直文は、5階建ての鉄筋の新館完成を決意する。そして新館完成を見たのは昭和38年のことだった。